危険?カルト?NARムーブメントまとめ

Hiropieです。
日本に入り込んでいるムーブメントであるNARについてまとめました。

この記事でわかること

NARについて
NARは危険であるということ

NARってなに?

NARはNew Apostolic Reformationの頭文字の略で、日本語に訳すと新使徒革命と呼ばれていて、フラー神学校の教授であったC・ピーター・ワグナー氏が1994年に世界のキリスト教会に広がるムーブメントに付けた名前です。

NARはC・ピーター・ワグナー氏の主張に同意するクリスチャンによって構成されているネットワークで、使徒的/預言的革命としてプロテスタントが誕生した宗教改革に匹敵する改革革命を起こすことを目指しています。

NARの主義主張

教会のリーダーは使徒

エスが12弟子を任命して使徒と名付け、使徒たちが教会のリーダーとなりました。
教会のリーダーシップは使徒であり、使徒のリーダーシップが現在も続いていると信じています。

五役者は存在する

使徒預言者・伝道者・牧師・教師という五役者が現在でも存在し、プロテスタント改革で牧師職が回復したように、使徒預言者職の回復が起こっていると信じています。

支配主義

霊の戦いで、この世界に神の国をもたらすことができると考えています。

七つの分野を勝ち取って統治する

クリスチャンは、宗教・家庭・教育・政治・メディア・芸術・ビジネスの七つの分野を勝ち取り、宗教・家庭・教育・政治・メディア・芸術・ビジネスの七つの分野を統治すべきだと考えています。

 

聖書以外の啓示

聖書から逸脱しないで、聖書と矛盾しない啓示があると考えていて、信じています。

 

神秘主義

奇跡や癒しや預言や悪霊追い出しを強調しています。

 

自由主義

教会の土台は人間関係。
人間関係で教会を構成して、人間関係で教会をリードすると考えています。

 

聖書は何と言っているか

NARの主義主張を聖書で検証

教会のリーダーシップ

教会の頭となるリーダーシップはイエスキリストです。

新約聖書のエペソ人への手紙2章20節にはこう書いています。

あなたがたは使徒預言者という土台に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。


ここの箇所で書かれている使徒はイエスに任命された使徒のことを意味しています。
預言者はマタイの福音書で言われている「律法と預言者」の「預言者」と同じ意味です。
マタイの福音書で言われている「預言者」とは、旧約聖書を書いた預言者です。

エペソ人への手紙3章5~6節にはこう書いています。

この奥義は、今は、御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、前の時代には、今と同じように人々には知らされていませんでした。その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。


ここで出てくる「使徒」と「預言者」は、キリストの奥義を啓示された者で、パウロが生きた時代の使徒預言者のことです。

使徒預言者はキリストの奥義を啓示された者を前提に、エペソ人への手紙2章20節を読むと、この箇所に出てくる「使徒」と「預言者」は、パウロの生きた時代の使徒預言者になります。

エペソ人への手紙2章は、公同の教会(全世界のキリスト教会)がテーマとなり、公同の教会(全世界のキリスト教会)について書かれています。

 

五役者の存在

エペソ人への手紙4章11~13節にこう書いています。

こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。

この箇所に基づいて、使徒預言者・伝道者・牧師・教師の役職を五役者と言います。
五役者の役割の目的は、クリスチャンたちを整えて奉仕の働きをさせることです。

エペソ人への手紙4章11~13節の理解を深めるため、コリント人への手紙第一12章28節を見ていきます。

そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行なう者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。

 「第一に」という原語はプロトンで「最初」という意味です。
「次に預言者」の「次に」という原語はデューテロスで「(順番や時間の)二番目」という意味です。
「次に教師」の「次に」という原語はトゥリトスで「三番目」という意味です。

コリント人への手紙第一12章28節に書かれている順番は、神様が用いた重要度と順番で、エペソ人への手紙4章11~13節にも適応できます。

 

支配主義

支配主義は旧約聖書ヨシュア記で、ヨシュアがエリコの壁を回った箇所と、旧約聖書のダニエル記でダニエルが祈りの答えを神様から頂くために21日間祈り続けた箇所と、新約聖書のエペソ人への手紙6章に由来していますが、聖書は何も言っていません。

 

七つの分野

聖書は何も言っていません。

 

聖書以外の啓示

聖霊の賜物の「預言」と「知識の言葉」と「知恵の言葉」と「霊の見分け」で、聖書から逸脱していなく、聖書と矛盾していない啓示があると主張します。

祈りの中で思ったこと、聖書日課の時間で思ったことなど聖書に基づいた啓示はありますが、聖霊の賜物を聖書よりも権威付けたり、聖書よりも上に持ってくるということがあります。


神秘主義

マルコの福音書13章21~23節にこう書いています。

そのとき、 あなたがたに、 『そら、 キリストがここにいる』とか、 『ほら、 あそこにいる』とか言う者があっても、 信じてはいけません。 にせキリスト、 にせ預言者たちが現れて、 できれば選民を惑わそうとして、 しるしや不思議なことをして見せます。

惑わすために偽者がしるしや不思議を行うと言っています。

また、マタイの福音書12章38~39節にこう書いてあります。

そのとき、律法学者、パリサイ人たちのうちのある者がイエスに答えて言った。「先生。私たちは、あなたからしるしを見せていただきたいのです。」しかし、イエスは答えて言われた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。」

神様以上にしるしや不思議を求めることは、偶像礼拝であり、姦淫であると言っています。
しるしや不思議は聖書で検証しなければなりません。


教会の土台は神様の言葉

教会の土台は神様の言葉です。

新約聖書のエペソ人への手紙2章20節にはこう書いています。

あなたがたは使徒預言者という土台に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。

ヨハネ福音書でイエスは神のことばと呼ばれていて、神のことばによって教会が構成されて成り立ちます。



ボクがクリスチャン情報を発信する理由

2018年年始にお腹と背中に激痛が走った。

少し様子を見たが、痛みが増すばかりで救急車を呼んだ。

救急車で病院に搬送され、検査をしたところ重症急性膵炎を患っていることがわかり、緊急入院することになった。

緊急入院した直後、多機能不全を起こし昏睡/危篤状態になった。

1ヶ月後、意識が戻ったとき

声が出ないし、体が動かない

そういう状態になったにも関わらず、ネガティブな感情や思考に捕らわれることが無かった。

何が出来るか?
神様の御心と計画は何だ?
使命に生きろと語られているように感じる。
何が使命なんだろうか?

そう問い続けた。

入院期間はICUに1カ月、HCUに1カ月、一般病棟に1カ月、リハビリのため地域包括ケア病棟に3カ月入院していた。

聖書に立ち、聖書が何と言っているかに耳を傾けること

入院しているとき、あることを振り返った。

教会がカルト化し、ダメージを受けて追い詰められたということだ。

カルト化した教会の牧師は、元々バプテストという健全な教理を教える教派に所属していた。

しかし、健全さを失い、教会が聖書と道理と社会から外れてしまい、カオス状態に陥った。

「何がそうさせたのか」ということを問い続けた。

そんなある日、聖書が何て言っているかを軽く見ていたことに気づいた。

聖書よりも預言や神秘的な体験を重視して強調していた。

預言や神秘的な体験を聖書と同じ位置に持ってきていたのである。

そのことに気づき、調べていくと、様々な教会が聖書から逸脱し中にはカルト化している教会もあることがわかった。

そこでイエスは、彼らに説明されました。「だれにもだまされないようにしなさい。そのうち、自分こそキリストだと名乗る者が大ぜい現れて、多くの人を惑わすでしょう。」(マタイの福音書24章4節~5節)それは、偽キリストや偽預言者たちです。彼らは不思議な奇跡を行って、できることなら、神に選ばれた者たちさえ惑わそうとするのです。(マタイの福音書24章24節)

 

今こそ聖書に立ち返り、聖書に立ち、聖書が何と言っているかについて耳を傾ける時だと思う。

そして聖書をフィルターにして物事を見て、聖書で物事を検証していく必要があると思う。

この記事が聖書で検証する啓発になれば幸いだ。

 

人生を変えたイエスとの出会い

人生は出会いの連続。
 
誰と出会うか...出会いが人生の質となり、出会いが人生のターニングポイントとなります。また、出会いが人生を変え、出会いが後の人生(一生)を決めます。
 
ボクはイエスと出会い、人生が変わりました。
それほどイエスとの出会いは、大きな出会いでした。
 
どれほど大きな出会いだったかというと

それほど大きな出会いでした。

 

 

エスと出会う前はハチャメチャでヤバかった

小学生時代

小学校に入学する前に両親が離婚して疾走、親戚に育てられます。

小学校に入学した直後、両親がいないということで、いじめに遭いました。
いじめは小学生時代(6年間)続きました。

どんないじめに遭ったの?

最初はからかわれることから始まったけど、いじめがエスカレート、仲間外れや無視、リンチまでされたね。

学校にも家庭にも居場所が無い
友達は誰もいない

孤独と言える小学生時代を過ごしました。

 

中学生時代

中学生になり、いじめが無くなり、友達も出来ました。
部活はコンピューター部に入部し、時期副部長候補に推薦されていました。

友達も出来て、勉強もそれなりに出来て、運動もそれなりに出来て、部活もそれなりに出来てと順風満帆な日々を過ごしていました。

そんなある日・・・

何かが吹っ切れたようで、非行に走りました。

何したの?

薬物や窃盗や喧嘩やバイクを乗り回したりとか、色々やらかしたね。

また、不登校になりました。
昼間はパチンコ屋やゲームセンターや友達の家でたむろ、夜は飲み屋や友達の家でたむろするかバイクを乗り回すかをしていました。

暴力団や暴走族からオファーが来て、学校でも家庭でも手に負えないほど、荒れていました。

 

高校生時代

卒業後の進路はヤクザと呼ばれているほど、荒れている高校へ入学しました。

入学式当日に非行が見つかってしまい、3日間の停学処分を受けました。
その2ヶ月後、また非行が見つかり、無期停学処分を受けました。

復学するよりか、高校を中退して社会に出よう

そう思い、高校を中退しました。

 

エスと出会った場所は教会

教会に行く前はヤバい状態だった

求人雑誌を見ていたときのことです。
ある寿司屋の求人募集の文字が迫るように目に飛び込んできました。
そして目に飛び込んできた求人に応募、即日採用されました。

寿司屋に就職し、板前見習いとして働き始めて間もない頃

学生時代は何という愚行をしていたんだろう。

自らの愚かさに直面し、更生しました。

職場の環境は、賄いのときに好きなものを握ってもらえたり、夜な夜な握りの練習をさせてもらえたりと非常に良かったです。また、職場の人間関係も非常に良く、仕事も非常に楽しく、やりがいがありました。

 

しかし・・・

拒絶感と空虚感がスゴイし、何か満たされない。

それからというもの、オカルトにハマっていきました。
オカルトにハマるに連れ、死に対して憧れを抱くようになりました。
そして自殺未遂をし、自殺未遂を繰り返すようになりました。

このままではヤバい。マズい。

そう思って何度も自殺未遂をやめようとしましたが、自殺未遂をやめることが出来ませんでした。

 

教会に誘われて、教会に行く

ある日・・・

日曜日、暇?

暇だけど

教会に行かない?

職場のアルバイトの人に教会に誘われました。
日曜日、待ち合わせした駅で合流し、教会に行きました。

教会に到着。
教会の中に入ったとき

空気と雰囲気?
明らかに何かが違う。

と感じました。


賛美の時間になり、賛美が始まりました。

何だこの音楽?
色んな音楽を聴いているけど、こんな音楽は初めて。この世のものとは思えない。

賛美を聴いて、そう思いました。

メッセージの時間になりました。
メッセージはヨハネの黙示録という箇所から、イエスの愛について牧師が語っていました。

礼拝後、教会の人とお茶会みたいなものがあり、お茶会に参加しました。
お茶会で教会の人と話しましたが、教会の人はフランクでフレンドリーでした。

お茶会のとき、教会の人からイエスについて聞きました。

エスと出会いたい。そして信じたい。

と思い、イエスを信じてクリスチャンになる決断をしました。
そしてその決断から2ヶ月後の1999年11月に洗礼を受けました。

 

エスと出会った後、まともになった

心の状態が変わり、解放される

エスと出会った後、神様とのコミュニケーションの方法を学びました。

神様とコミュニケーションをしていく中、神様と神様の愛で拒絶感と空虚感が払拭され、満たされない感じが無くなりました。いつも満たされている感じがして、受容感と肯定感で満ち溢れるようになりました。そして、オカルトと自殺未遂からも解放され、オカルトと自殺未遂をやめることが出来ました。
 

家族関係の回復

神様の働きで、親戚との関係が回復しました。
そればかりか、実母の所在がわかり、実母と再会して和解することが出来ました。
神様は親戚との関係ばかりか、実母との関係をも回復してくれました。